バンコクへ行くのは平日に予定している。
土日だとフライトも混み合うし、そうなると城崎柊真だとバレそうで、あえて平日にした。
そして、今日は日本最後の日。仕事は昨日のCM撮影が最後だったから、今日はオフだ。
夜はしばらく会えなくなるからと、俳優仲間と食事の約束をしている。その前に、ファンレターが届いているだろうから事務所へと行った。
仕事が忙しい、という浅川さんの愚痴を聞いていた。
確かに、事務室に来ると、いつも電話が鳴っているような感じだし、ざわざわしている。それは仕事が忙しいだろうことは推察できる。
浅川さんはいつも話していて楽しい。
そうして、浅川さんからファンレターを受け取り、エレベーターへと行く途中の給湯室で話し声が聞こえた。
どうもこの給湯室はおしゃべりの場になっているらしく、来るたびに色々な情報が耳に入ってくる。もっとも最近は颯矢さんのことばかりだけど。
そっか。結婚近いのか。そうだよな。颯矢さんが入院中は結構、お見舞いに行ってたみたいだし。記憶が戻ったことも看護師さんから聞くくらい行っていたっていうことだ。結婚間近なのは間違いないだろう。
俺がバンコクへ行っている間に結婚しているだろう。普通、マネージャーが結婚するときはタレントも参列するけれど、俺はそういう話は聞いていない。
そっか、結婚式には来るなっていうことか。
やっぱり帰国後のマネージャーは氏原さんに変えて貰うことにしたのは正解だったな。そんなに颯矢さんに嫌われてたとは思わなかった。
昨日の颯矢さんを見ているとそんなふうには思えなかったけど、取り繕っていたっていうことなんだろう。どうでもいい。もう俺には関係のないことだ。そう思ってエレベーターに乗った。
ファンレターは結構な量があったし、時間はあったから一度家へ戻る。頭の中は先ほど給湯室前で聞いたことでいっぱいだ。
俺がバンコクへ行くのは2年間。きっとその間に颯矢さんは結婚するんだろう。完全に人のものになってしまうんだな、と思うと悲しくて涙が出た。
ずっと好きだった。何度も告白した。一度もまともに聞いてくれたことなかったけど。それでもずっと好きだった。でも、もうその気持ともさよならだ。颯矢さんへの気持ちと決別するためにバンコクへ行くのだから。
さよなら颯矢さん。幸せになってね。
とうとうバンコクへ行く日が来た。どきどきしながら、フライトの約2時間前に空港へ来た。
チェックインをオンラインでしていなかったので、自動チェックイン機でチェックインするために並んでいた。すると、誰かに腕を掴まれた。誰だろう、と思って振り返ると、そこには怖い顔をして、息を切らせている颯矢さんがいた。
なんで? なんで颯矢さんがここにいるの?
そう言って腕を引かれるので一度列から離脱し、近くの椅子に座る。
は? あの男? あの男って誰? バンコクで知り合いなんて小田島さんしかいないけど。颯矢さんが知っているはずがない。
あの撮影のときバンコクで一緒にいた人? それは小田島さんしかいない。なんで颯矢さんが小田島さんのことを知っているんだろう。バンコクで小田島さんと会ったのは、一緒に食事をした一度きりだ。もしかして、そのとき颯矢さんは見ていたというのか。
なに言ってるんだ? バンコクでそんな店に行ったと思ってるの? そう思われてることに腹がたった。
は? あの男だから行くってどういう意味? 確かに小田島さんには世話になることは決定しているし、そう伝えてもいる。
だけど、バンコクへ行く理由にはなっていない。颯矢さんはなにを勘違いしているんだろう。
は? 俺が小田島さんのことを好きでバンコクへ行くって思ってるのか。しかも仕事を辞めて?
旅行で間違いないと思う。ちょっと長いけど、日本には帰国するんだから。ただ、それと小田島さんは関係ない。
そうだ。俺が誰を好きだろうと関係ない。颯矢さんは別に俺の恋人でもないし、それよりも香織さんと結婚するんだから。そんな人に誰のことを好きだろうと、とやかく言われる筋合いはない。
それに引退だなんて誰に聞いたんだ。
え? ちょっと待って。今、好きなやつって言った? 誰が誰のことを好きだって? 颯矢さんは香織さんのことが好きなんでしょう? だから結婚するんでしょう? そうしたら、俺が誰を好きだって関係ないんじゃないか?
そうだ。勝手だ。俺の告白は散々かわして、香織さんとお見合いをして結婚を視野に入れて付き合ってる。そんな人が、俺を誰にも渡したくないから結婚しないって。俺のことも香織さんのこともバカにしてるにもほどがある。
俺には手を出せない? なんで? 俺がタレントだから?
言っていることはめちゃくちゃだ。でも、好きだって言われて嬉しい。香織さんには申し訳ないけど、颯矢さんのことはずっとずっと好きだったんだ。そんな人から好きだと言われて嬉しくないはずがない。
そう言うと颯矢さんの顔は余計に怖いものになった。
ほんとに勝手なことを言ってる。でも、それでも嬉しいってダメかな? 無理だと思ってたんだ。告白さえきちんと受け取って貰えないから。だから颯矢さんはノンケだと思ってた。
でも、そんな颯矢さんが俺のことを好きだと言ってくれて、誰にも渡さないと言ってくれるなんて夢みたいだ。
そう言って颯矢さんは俺を抱きしめた。颯矢さんの匂いと体温が心地良くて、俺は涙が出てきた。
なんかほんとに壮大な誤解をされている気がする。颯矢さんの中では、俺は小田島さんのことが好きで、それで芸能界を辞めてまで追いかけて行くとなっているのか。
そう言って颯矢さんは俺を抱きしめる腕をほんの少し緩めた。
そこで颯矢さんは俺を抱きしめる腕を離し、俺の顔を見る。
俺が颯矢さんを泣かせた? そんなことしてないのに。
そう言って颯矢さんは優しい笑顔を向けてくれた。今まで見たことのない、明るくて優しい笑顔だった。
身勝手な、それでも愛しい男はそう言って俺の手を引いて歩き出した。