鬼の記憶 03

 翌朝、空は薄曇りで、夏の湿気を含んだ風が穏やかに吹いていた。真夏と兼親は大江山の麓にある、日本の鬼の交流博物館へと足を運んでいた。

 もっと小さいと思ったけれど、日本の鬼だけでなく世界の鬼についても扱っているため、それなりに広かった。

 館内は地域に伝わる鬼伝説にまつわる資料や、各地の鬼面、鬼に関する絵巻や民話の記録などが所狭しと並べられていた。

 真夏はその一つ一つを丁寧に見て回った。世界中から集められた鬼の面は、怒りに満ちたもの、悲しみに沈んだもの、表情も情景も色々だった。

「こうして見ると鬼って一言で言っても随分違うんだな」

 兼近が感心したように呟いた。

「うん。怖いのも当然あるんだけど、人間臭いのも多いね。誰かを見てる気がする」

 ぽつりと口に出して、自分でハッとする。まるで目があっているように感じる面がある。赤や青、黒、木地のままのものもある。どの面にも魂が宿っているような生々しさがあった。

 しかし、どれだけ見ても、心の奥がこれだ! と震えることはなかった。見覚えのある顔、記憶に引っかかるような面。そういうものには出会えなかった。

(ここじゃないのかもしれない。)

 真夏はそんなことを思いながら、展示の奥にある一角へと歩を進めた。そこには大江山に伝わる酒呑童子伝説が詳細に展示されていた。

 鬼たちの頭領であったという酒呑童子。その異能、その退治にまつわる説話、源頼光と四天王による成敗、その顛末を描いた絵巻や再現された衣装、武器などが並ぶ。

 鬼の中でもひときわ有名で、そして、”悪”として語られる存在。酒呑童子。

 真夏はじっとその面を見つめた。巨大な角、猛々しい目つき、裂けたような口。絵巻の中の彼は、確かに人を襲う恐ろしい存在として描かれている。

 でも、胸の奥が騒ぐことはなかった。怖いとも、懐かしいとも思わない。ただ、どこか遠い世界の物語を見ているような、冷めた気持ちがあるだけだった。

「……ピンとこない?」

 隣から兼近がそっと声をかけた。真夏は頷く。

「うん。すごく興味深いし、迫力あるけど、でも違う。これじゃないって感じがする」
「じゃあ、酒呑童子じゃないんだな。真夏が夢で見てる人は」
「うん、多分……。でも、ここじゃない鬼が確かに、どこかにいる気がするんだ」

 真夏がそう言った時、展示の脇にある細い通路から何かが聞こえてきた。

 ヒューヒューと風が吹き抜けるような高く細い音。笛の音だった。

「!」

 真夏はその場で立ち止まり、音のする方へと顔を向けた。

「今、笛の音、聞こえた?」
「え? 聞こえないけど?」

 兼親は首を傾げたが、真夏の耳には確かに笛の音が届いていた。龍笛のような、どこか寂しげで、けれど芯のある音色。

 まるで夢の中で聞いたあの音だ。真夏の胸が一瞬で高鳴った。

 いくら笛が展示されているからって、笛の音が聞こえるのなんておかしいと思った。

 視界の端が揺れた気がした。展示室の薄暗い照明が、ふと夏の夕暮れのような色に変わった気がした。

 風もないのに髪が揺れた。誰かが近くを通ったような気配。だけど、そこには誰もいなかった。ただ、笛の音だけが耳の奥に残っていた。

「夢と同じ、音……」

 笛の音はすぐに止んだ。 

「真夏?」
「なんでもない。ただ、今、すごく懐かしい音がした気がしたんだ」

 そう言いながらも真夏の胸奥には、確かな何かが残っていた。

 鬼たちの中に混じっていた声なき思い。笛の音に込められた誰かが呼ぶような気配。

 ここにも、何かの断片があった。

 思い出せないままに、それでも確かに存在する何か。

 真夏は静かに息を吐きながら次の展示へと歩を進めた。

 次の展示は笛だった。楽器に明るくないから、その笛がなんという笛かはわからないけれど、和楽器だということはわかる。雅楽で使われる楽器だろうことはなんとなくわかる。

 でも、その笛が真夏の心を揺らした。この笛を見たことある。

「この笛……」
「この笛がどうかしたのか?」
「懐かしい……」
「これ、雅楽で使われる笛だろう? 真夏、雅楽なんてやってないし、ましてや笛なんてやってないのに」
「うん。そうなんだけど……誰かが吹いているのを見たことがある気がする。ううん。夢で見た。何回も」

夢で見たということは銀髪の人だ。そういえば、前に、夢で笛を吹いていた。そうだ。その笛がこれだ。

 なんでそれが鬼の交流博物館にあるのかはわからない。わからないけれど、真夏はその笛の前から動けなかった。 

 翌朝、まだ朝露の残る中、真夏と兼親は大江山の登山口に立っていた。

 昨日までの湿気を含んだ空気は夜の雨のおかげで少しだけ和らいでいた。舗装された道はやがて砂利道へと変わり、さらに進むにつれ、木の根が露出した登山道となっていく。

「思ったより静かだな。観光客、もっといるかと思った。これからなのかな?」
「そうだね。でも、この静けさ、嫌いじゃない。むしろ落ち着く感じがする」

 登につれて、蝉の声の他に、鳥のさえずりが耳に入ってくる。

 ふと真夏は足を止めた。

 風に混じって、微かに笛のような音が聞こえた気がした。しかし、それはすぐに風にかき消される。音ではなかったのかもしれない。ただ、自分の心の奥で何かが囁いたような、そんな間隔だった。

「真夏?」
「あ、ああ。ごめん。なんでもない。ただ……なんかこの辺知ってる気がして」

 兼親が不思議そうに眉をひそめる。

「来たことあるのか? 初めてだよな?」
「来たことはないよ。だけど、懐かしい感じがするんだ。あの岩。何度も見たような気がする」

 真夏が手で示した先にあるのは、苔むした大きな岩だった。

 記憶にある風景、というにはあまりに朧で、けれど確かに心がざわつく。初めて訪れたはずの山なのに、どこかに自分の一部が置き去りにされていたような、そんな感覚。

 ふと風が吹き抜けた。

 風の匂いに、真夏は一瞬、強い既視感を覚えた。山の土と、樹皮の香りに混じって、どこかで嗅いだような、少し甘くて、でも煙のように深い香り。

(お香?)

 思わず目を細める。どこからともなく漂ったその香りは一瞬で消えた。けれど、心の奥に残る感覚だけははっきりとした痕跡を残していった。

「なあ、真夏。この旅でなにか思い出した?」

 不意に兼親が訊ねた。

 真夏は少し迷ってからゆっくりと頷いた。

「断片的に、だけど。夢の中の風景がこの山と繋がってる気がする。きっと銀髪の人と、ここで何かあったんだと思う」

 彼の姿はどこにもない。気配も感じない。

 でも、山そのものがまるで真夏の記憶の器のように、真夏の心を静かに震わせた。

 2人は再び歩きはじめる。柔らかな陽光が木々の合間から差し込み、足元に淡い影を落とす。時間がゆっくりと、そして静かに流れていく。

 銀色の髪の人には会えなかった。でも、それでも構わない。会えるとは思っていなかった。でも、きっとこの道の先にまだ何かが待っている。そう信じたくなるような優しい風が真夏の頬を撫でて過ぎていった。

「でも、収穫があったのなら良かったな」
「ああ、おかげで。兼親のおかげだよ。この山に登ってみようって言ったのは兼親だから」
「まぁ、何か思い出すかは別としてさ、銀髪の人は繰り返し夢に見るんだし、子供の頃から鬼に反応してたし。そしたら、ここに来たら何かわかるんじゃないかってさ、思うじゃん」
「そうだな。その読みは当たってたみたいだ」
「じゃあ、今度夢を見たら、また違う何かを思い出すかもしれないな」
「そうだといいな。今まで、わからなさすぎたよ」

 子供の頃から繰り返し見ていたのだ。わけもわからず、ただ同じ夢を見る。どんな意味があるんだろうかと、ずっと気になっていた。

 でも、どうやったら何かがわかるのかがわからなさすぎた。そのキーワードを探してくれたのは兼親だ。真夏1人ではここまでたどり着けなかっただろう。

「まぁ、何か手がかりになるものがあったみたいだし、もう少し歩いて見ようぜ。鬼の足跡があるみたいだぞ」
「鬼の足跡? 面白いね」
「鬼のモニュメントもあるし、すごいよな」
「ほんとに、いたのかな……」

 本当に鬼はいたのだろうか。あの銀髪の人は人間なのだろうか。それとも……。

 鬼なんているはずがない。だから酒呑童子にだって何とも思わない。でも、あの人は、どこか人間離れしている。そう感じる。あの人こそ、鬼なのだろうか。夏の風に吹かれながら、そんなことを考えた。

 大江山の中を歩いて――頂上を目指してないし、ただ歩いていただけだから登山とは言えない――夕食の時間ぎりぎりに宿に戻り、お風呂にも入って、明日帰る支度も終え、後は寝るだけになった時に兼親が言う。 

「明日はもう東京に戻るんだな。元伊勢観光は面白かったし、大江山が思ってた以上に鬼を前面にだしていたし、真夏も収穫があったみたいだから、いい旅だったな」
「自分のことは置いておいても、楽しかったな。ほんとに鬼のモニュメントに鬼の足跡っていうのがすごかった」
「ほんとに。あーでも、帰りたくない。明後日から早速バイトだよ。冬の伊勢があるからな」
「仕方ない。伊勢を歩こうって言ったのは兼親だぞ」
「わかってるよ。あー。もう寝るぞ。さすがに疲れた」
「そうだな。おやすみ」
「おやすみ」

 そう言って部屋の電気を消して間もなく、隣から兼親の寝息が聞こえてきた。とはいえ、真夏ももう瞼を開けてはいられない。そう思った瞬間、夢の中へと入っていた。

「あ、ここ……」

 真夏は昼間歩いた道すがら見かけた苔むした大きな岩の前にいた。そして、その岩にはいつも夢で見る銀髪の人がいて、笛を吹いている。

(この音色……)

 その音色はここに大江に来てから何度か聞こえてきた音だった。

 笛を吹く銀髪の人の横顔を真夏はじっと見ていた。すると、真夏の視線に気がついたのか、その人は笛を吹くのをやめ、真夏に視線をやる。

「その笛……」

 真夏の視線の先にあるのは、よく見ると竹のようだった。そんな笛があるのだろうか。

「……。竹笛だ。篠笛とは言えない簡素なものだ」
「竹笛……」

 銀髪の人は、簡素なものだと言いながら、大事なものを見る目で竹笛を見て、撫でていた。

 音楽に明るくない真夏にでも、その笛は簡素なものだとわかった。でも、彼がその笛をとても大事にしていることもわかった。

「あの! 俺、大江に来て、少しだけ思い出したと言うかなんていうか、ここが俺にとってとても大事なところだってわかったんです。きっと、もっと思い出します。だから……思い出したら現実世界で会って貰えますか?」

 真夏がそう言うと、銀髪の人は視線を竹笛に落としたまま口を開いた。

「……お前が望むなら」
「なら、待っててください。俺、頑張って思い出すので」
「でも、私と会って、良いことはないよ」

 そう言って寂しそうに笑う姿を見て、真夏は胸が苦しくなった。なぜ、そんなに寂しそうな顔をするのか。

 きっと何かあったのだろう。そして、それは思い出さなくてはいけない気がした。

「そんなこと言わないでください。俺はあなたと会いたいと思っているんです。それだけ、忘れないでください」

 真夏がそう力強く言うと、銀髪の人は小さく頷いた。 

(俺と会うことで、きっと何かあるんだ。)

 そう思うけれど、現実世界で会いたいという気持ちは譲れない。だから会って貰う。そして、そのためには必ず思い出す、と真夏は思った。

 銀髪の人は真夏に一瞬、目をやっただけで手元の竹笛に目を落としたままだ。そして、真夏はそんな人の横顔を見つめていた。

 すると、世界が白くなって霞んでくる。

「……目覚める時間だ」

 そう言って真夏の方を一瞬だけ見てくれた気がしたが、空が白み始める方が早くて良くわからなかった。

 真夏の頭の方でスマホの目覚ましが鳴っている。ここで目覚ましを止めて二度寝をしたいところだけど、残念ながら今日は東京に帰る日だ。そういうわけにはいかない。

 真夏がしぶしぶと頭を上げると、隣の兼親はまだ寝ていた。

「兼親! 起きて! 朝だよ!」

 1度言ったくらいでは起きない兼親に、今度は耳元で言うと、さすがに煩かったらしく一発で目を覚ました。

 兼親はノロノロと起き上がり、真夏の顔をしばらく眺めた。

「なに。起こしたから不機嫌?」
「いや、そんなことはないけど。いや、あるか。少しな。でも、そんなことより何かいいことあった? ってか、真夏だって寝てただろうけどさ。夢、見たとか?」

 問われて真夏は頷いた。

「もしかして夢の銀髪の人?」
「うん」
「会う約束したとか?」
「俺がもっと思い出したら。自分と会ってもいいことはないって言われたけど、会いたいからって押し通した。でも、俺があんなに懇願するとかちょっと驚き」
「そっか。ずっと会いたいって言ってたから、それでだろ。子供の頃から夢見ている人だし。だからだろ。会えるように頑張って思い出さなきゃな」
「うん」
「俺も手伝えることあれば手伝うからさ」
「じゃあ、その前に起きて。髪、寝癖ひどいぞ」
「はーい。起きますよー」

 不承不承起き上がった兼親を見て、何だか兼親にも何か言いようのない気持ちを感じた。

 兼親は幼馴染みだけど、もっと昔から知っているような。そんな気がした。 

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